にゃんこ心理士の社会の真理

にゃんこ心理士が社会の真理を綴ります。

災害派遣の真実!思いもよらなかった衝撃

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 2011年3月11日、「東日本大震災」が発生!

 あれから、もう9年も経つんですね。

 被災された方々には心からお見舞い申し上げるとともに
 復興に尽力されている皆様には安全に留意されご活躍されることをお祈りいたします

 

 これは、私の実体験になるんですが、この災害派遣も私が現場の第一線を退く要因の一つとなっています( ;∀;)10%位ですが。

 

 余談にはなってしまいますが、急性期の精神科の単科病院って、本当に色んな患者さんが来るんですね。シンナー飲んでしまったり、青酸カリ所持してたり…。

 

 私が勤めていた病院は輪番病院と言って、精神科の救急当番もしてましたから、薬物を使用して錯乱状態で警察に拘束ボードに拘束されて来院。なんて、当番日には良くありました。

 

 そういう、急性期の患者さんの治療に関わるとどうしても「死」と言う場面に立ち会う機会が多くなります。「死」に魅入られると言うのでしょうか。それまで日常でなかった様なことが、一生に一度あるかないかと言うことが、次々に起きていきます。

 

 お世話になった看護主任さんからは「患者さんが死ぬことに慣れるしかないよ」と言われていましたが、どうしてもその頃は慣れてはいけないと感じていました。

 

 この時に看護主任さんに言われたことは、その後経験を積んでから分かる部分も増えてきました。ですが、やはり関わった人が亡くなるのは悲しいものです。

 

 当時の精神科は本当に闇が深くて、今、思い返すだけでもゾッとしますが、必要悪なのかなとも感じます。この辺も、いつか書き残しておきたいと思います。

 

 【皆さんも、こんな話し聞いてみたいとかあれば気軽に教えてくださいね(*^^*)】

 

 災害派遣に行くきっかけになったのは、2011年にお亡くなりになった患者さんに対する自責の念がありまして、もっと人を救いたい、助けたい、償いたいなどの様々な感情が入り混じって、病院に直談判して行かせて貰うことになりました。

 

 今、思うと若かったなと思います(; ・`д・´)カッ

 放射能の問題などもありましたし、決死の覚悟で行きました。

 

 今は災害派遣精神科医療チーム(DPAT)なんて凄いチームがありますが、私は県の精神病院協会のこころのケアチームとして、災害派遣に行くことになりました。

 

 編成は、精神科Dr3名、事務長1名、看護師1名、精神保健福祉士1名で宮城県に向かいました。

 

 えっ!福島県じゃないの?っと思われた方もいるかもしれません。

 はい、そうなんです(/ω\)宿泊先がないのです。

 

 宮城県のホテル(と言っても何か色々な意味で凄いとこでした)を拠点として毎朝、1時間ぐらいかけて車で国道6号線を南下し南相馬市に向かいます。

 

 国道6号線を南下すると凄惨な光景が広がります。津波の被害で畑に大型船があったり、木が軒並みなぎ倒されていたり、とても衝撃でした。

 

 写真の撮影に関しては、病院での研修資料作成用の必要最小限を除いては撮影しませんでした。

 

 そうです。私が災害派遣で活動していたのは南相馬市です。

 

 そして、この先、文章を書くのが本当に辛いです。( ;∀;)

 

 本当に、本当に辛いです。

 

 だって、殆ど何もしなかったんですから(´Д⊂ヽ

 

 皆さん、これ、オチではないんです(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾

 

 事実なんです(; ・`д・´)

 

 では、事実と、その事実から何が考えられるか解説していきます。

 

 こころのケアチームは持ち回り制で、精神病院協会に加盟している病院の有志で混成されます。医療従事者のメンタルの負担を勘案して、派遣日数は1チーム5日。

 

 南相馬市の保健センター(うろ覚えですが)に在中しました。ここで、被災者の方々のこころのケアに従事します。

 

 しかし、殆どやることはなく、皆で、ぼーっとして過ごしてました。

 

 余りにも、暇なので、ガイガーカウンター放射能を測定する銃みたいな機械)で色々な所の放射線量を図ってみたり、ペ・ヨンジュン号という福祉車両に乗ってみたり…。

 

 という毎日が続きました。当然、男6人なので毎晩、酒盛りです(; ・`д・´)

 

 最後の2日間は仮設住宅への訪問と、近くの病院での午後診を1診のみ担当した位です( ;∀;)

 

 さすがに2日目位には焦りました。災害派遣とは言え、本来の業務を放棄してきているわけです。無給でいいと言ったんですが、事務長が就業規則を変更して出張規定を作ってまで行かせてもらったのです。←県で一番大きい病院でした。

 

 病院に戻って、「何もしませんでした!」では、すみません。

 しかも、出張で行かせてもらう代わりが災害派遣の資料の作成と院内研修の実施…だったのです( ;∀;)

 

 いやー、資料作るの大変でした。思い返すと恥ずかしいです(/ω\)

 

 文字にするのは、とても良いですね。書き起こしていて、若いときの自分の身勝手さや周囲の温かさが理解できます。

 

 皆さん、本当にありがとうございました。

 

 さて、では何故この様な状況になってしまったのか、自分なりの解釈を伝えさせて頂きます。

 

1.災害発生後2ヶ月程経過していた

 私が災害派遣に従事したのは、災害発生後2ヶ月を経過していました。このことから、急性期の症状が発現した方たちは治療が開始又は終了していた。

【要援助者の数は減少傾向にあった】

 

2.支援過多になっていた

 私は県の精神病院協会からの災害派遣でしたが、他の都道府県、厚生労働省、各大学病院など様々な機関から、こころのケアチームが派遣されていた。

【援助者が沢山いた】

 

3.こころのケアを受けると言うことへの抵抗

 9年前は今ほど、神経・精神科領域への理解が浸透していなかったため、潜在的な要援助者へ支援の必要性が実感できなかった。

【顕在的な要援助者が少なかった】

 

 と言う、状況だったのかなと思います。

 

 最終日は、仙台で牛タンを御馳走になり帰りました(/ω\)

 

 あっ、最後に豆知識です(*^^*)
 今でこそ、メンタルクリニックができて、少しずつ神経・精神科領域の理解が深まりました。これを読んで下さっている方で治療を受けている人もいるかもしれません。

 

 3の理由でもあるんですが、
 神経・精神科領域は医学のなかでとても遅れています。1950年に精神衛生法が制定されるまで、私宅監置といって治療も受けれず、自宅に監禁されることが認められていました。

 2004年に障害者自立支援法が制定されるまでは、神経・精神科領域の治療の主体は長期入院治療だったのです。社会の偏見も凄かったです。

 

 この様な、社会背景から特定の地域や、年齢層によっては、まだまだ理解をされていない面もあるかもしれません。

 

 被曝して死ぬのを覚悟した私の身勝手な災害派遣はこうして幕を閉じました( ;∀;)

 

 しかし、その様ななかでも、著名なDrから5日間に渡り御教示頂けたことや、派遣先で関わった方々、災害派遣を認めてくれた事務長及び病院関係者の方々には本当に感謝しています。